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komi project

駆け出し映像家・こみやまが映像のあれこれをあれこれする企画

【マークドイエロー後記】

みなさんこんばんはこんちは。

 

こみやまです。お久しぶりです。

 

昨日、もぴプロジェクト第三回本公演「マークドイエロー」が千秋楽を迎えました。

 

 

言葉がうまく出てこないのですが、月並みに言って

 

 

 

最高でした。

 

 

 

本当に自分の魂が昇華されるような。そんな感覚に陥ったり。

なぜか最近感傷に浸りやすく、自分たちで作ってきたお芝居に心打たれたり。

 

そんな公演でした。

 

僕にとっても劇団にとっても、節目になるんじゃないかな、なんて思ってたりします。

ターニングポイント。

 

 

さてさて、僕の話はこのくらいにして。

 

今回の公演の映像についてちょこっと喋らせてください。

 

 

今回の公演、プロジェクターの台数としては5台でした。

ほうぼうからかき集めてなんとか5台賄って、公演を回していました。

 

まず、5台制御するのってほんっっっと大変。笑

 

プロジェクターのフォーカスも5回合わせなきゃいけないし、ケーブルも5系統繋がなきゃいけないし、まずそもそもMacBook Pro って映像出力3系統だからPC二台ずっと動かしてるし。カロリー的にはとても高かったです。

 

まあ、メカニカル的な面は、とにかく手間のかかる公演でした笑

 

映像作品の方で言うと。

 

変な話、それなりに得意分野な方向の映像で勝負した面は有りました。

 

お話がドグラ・マグラを原案にした、人間の魂のお話。

 

また、(僕の私見ですが)今作のテーマの一つが「自分の人生を自分で選択すること」であったので、OP映像のテーマは、主人公の物語としては「序」にあたる、「他人にどこか依存して生きている様」でした。

 

そして、冒頭の群唱でその様を「キチ○イ地獄」と例えていたことも有り、「依存=地獄」というイメージから膨らませて作りました。

 

そして、ご都合主義っぽいかもしれないんですが、今作の主人公、Aが、同じことを延々と繰り返している(=輪廻)ことにも注目しました。あのOP映像は、今作の一回前の実験を示していたりして。

 

つまり、依存(=周囲が作り出す流れに身を任せる)から抜け出せなかった結果、急転直下、闇へ闇へ落ちていく、そしてその結果、あらゆる記憶が砕け散り、物語冒頭に戻る。

 

そんなストーリーを考えていました。

 

 

ちょっとここから僕の頭の中のノートを広げます笑

 

ちょっと考えると、世界って無限で、有限なのはせいぜい命くらいなもので、人間の一生涯って矮小なものでしかなくて。

 

そして仏教でもあるように、この世界での全、森羅万象は、実は単一のものなんです。これって、簡単に行ってしまえばマクロミクロって話で。

人生の100年って、人類が誕生した時間から見ればとっても小さくて、そしてその人類の歴史ですら、地球の歴史からしたら小さくて、そしてその地球の歴史すら宇宙の歴史から見たら小さくて。

なんかそういう、突き詰めた先に、自分にまつわるすべてのものがつながる瞬間があるなって思ったりするんですよ。

 

なんか脱線しているようですが、言いたいのは、自分の人生で今落ちてるって思う瞬間って必ずあって。でも、それって自分の人生っていう極めて小さい尺度で測ってるから大きく落ちてるように感じてるだけ。

マクロ的に見たら、そんな落下は落下とはいえないし、むしろ上昇かもしれなくて。

つまり、落下も上昇も全く同じで、差異なんて無いんです。

 

そして、人間どうしの差異なんてもっとくだらなくて。

人と人との差異なんて、ごくごく微小なものでしかなくって。だって人類が70億いて、地球上に生物って120億種類いて、そしてその地球を抱える恒星系が。。。

 

って思ったんですよ。この台本を読んでいくうちに。

 

だから、僕は映像で何処かで規則的な動きっていうのを多用しました。

円運動とかが最たるもので。

 

たっくさんのものが同一球上に存在していたとして、各自勝手に動いていて。それぞれからしたら周りの人ってとってもすごいスピードで動いているけど、結局同じ場の上にいて。つまり、全は一、一は全。仏教的には色即是空、空即是色。太古の偉人たちが考えてこういった文句はやはり球、円がないとたどり着けないものなんじゃないかって思います。

 

なんか円とか球ってそういう不思議なパワーがあるように思えるんですよ。

 

そして規則的な動きの中には、神がやどります。

曼荼羅や、ダヴィンチの絵にも、規則的な、しかも円による配置というのが利用されていて、この規則的なものってやはり何かある、と思っています。

 

数学とか好きでしたからね。笑

 

 

また少し脱線しますけど。

今回の作品でメインのテーマだったのが、精神病者精神病者ではない。といったもので。

 

それと絡めて、共依存と愛とエゴの話が展開していくものでした。

 

このエゴの話っていうのがとっても難しくて。

 

自己中心的なことがエゴって言われるじゃないですか。

 

でもこの作品では、他人のためにしている正義も結局どこか見返りを求めた時点でエゴイズムであって。

これがとっても難しいな、って思いました。

 

 

僕は誰かのためになんて大したことできるような人間じゃないし。まずそもそも自分のこともうまくできてないのに、人のためになんておこがましいなんて思っていたりします。

 

でもこのレトリックが自分のエゴイスティックな側面を隠すための逃げとも思いますし、かといって他人のためにやったことの見返りを全く求めないこともできる自信はない。

 

じゃあ今の自分は正義かっていうと、そうと言える自信もなく。

 

なんか人間って悲しい生き物だなってつくづく思います。

 

漫画なんかで、よく買ったほうが正義なんて言いますけど、これって本当に言い得て妙だなって思います。

 

まあ、ワン○ースなんですけど笑

 

これを普遍的な方向に置き換えて考えると、

 

買った方=生き残った方の正義がよりベターな正義で、そうでないほうは生き残っていけない。

つまり、振りかざしていた正義がどこかでよりベターなものに負けた時に、やっと自分の正義が正義でないことがわかるのかなって。

 

しかもここで面白いのが、そのベターな正義って、その状況においてっていう条件付きなんじゃないかなって思うんですよ。

 

たとえば、カップルの片方がとんでもない浮気をしてたとします。

その相方は当然怒ります。裏切りですから。

そして、暴力を振るったとします。

 

ただ、浮気されたほうがそれまでに裏切りを幾度となくしていたら?

この暴力というのは、まるで正当化される理由が見つからなくなってしまうわけですよね。

 

そして、世間でそのとんでもない浮気をしたほうが悪い、なんていう風に取り上げてしまった瞬間に、暴力を振るった方が、信じられないことに正当化されてしまいます。

こうして社会的に生存できなかった正義って淘汰されて、社会って進んでいってしまうのです。

 

面白いことに、こうして勝利した正義が多数派になって、長く長く社会に染み付くのです。

ダーウィンの進化論みたいだなと思ったのですが、でも人間社会で一番大きなファクターになってしまうのが、この「数」という概念だと思うのです。

 

先ほどの、「勝った方が正義」。

人間社会では「数の多いほうが正義」になってしまうのです。

 

変ですよね?

でも、人間として生まれてしまったからには、この異常に適応しなければならない。別に生物的に死にたければ適応しなくてもいいと思うんですが。

 

ただ、自分の根幹だけは忘れたくない、なんて思います。笑

 

 

自分の根幹にあるのは、「人にされて嫌なことはしない」です。

なんか、これだけは、正義だと思ってしまうのです笑

 

 

長々とありがとうございました。